「社会知性の開発」(専大HP参照)を目標に、週1回、ディベートまたはディスカッションを行うサークルです。
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自由とは義務からの解放ではなく。むしろ、自分に義務を課せる事こそ、自由のなせるわざである思う。
そう考えると、自由と義務とは対極にあるのではなく。自由と対極にあるのは、考える事を辞める事なのかな。
思考する事は思考に縛られる事なのだから、自由ではない。と考える事もできるが、無思考のロボットに自由などあり得ない。自ら考え、自らに義務をかす。これ以上の自由はこの世にないと私は思う。
自由を具体的に述べるとすれば、思考する事ではないか。
なるほど。Cさんが言いたかったのはこういう事だったと思われます。僕が上手くまとめられなかったみたいです。あとで記事を修正しておきます。
ところで、しんぺいさん、及びCさんの見解に従うと、自由とは「思考できること」を意味することになりますよね。
だとすると、身体的拘束(例えば、監禁、緊縛、奴隷労働)は「思考できること」を害しない限りは、自由を制約しないことになります。
手足を縛られていても、「思考」することはできるじゃないですか。
まぁ、「自由」を制約しないことを理由に人に身体的拘束をすることが許されるか? はまた別問題な気がしますが。
確かに拘束等によって、物理的自由は奪われるのかもしれない。
しかし、拘束等によっても思考する事を奪うことはできない。だとすれば、やはり自由の本質は思考にあるのではないか?
本来、自由とは奪うことの出来ないものを指すのではないか。
従って、身体を拘束されたとしても人は本質的な意味の自由は制約されないと考えられる。
まぁなんとなく講釈垂れてるだけの様なきもするけど。
自由とは義務からの解放ではなく。むしろ、自分に義務を課せる事こそ、自由のなせるわざである思う。
そう考えると、自由と義務とは対極にあるのではなく。自由と対極にあるのは、考える事を辞める事なのかな。
思考する事は思考に縛られる事なのだから、自由ではない。と考える事もできるが、無思考のロボットに自由などあり得ない。自ら考え、自らに義務をかす。これ以上の自由はこの世にないと私は思う。
自由を具体的に述べるとすれば、思考する事ではないか。
なるほど。Cさんが言いたかったのはこういう事だったと思われます。僕が上手くまとめられなかったみたいです。あとで記事を修正しておきます。
ところで、しんぺいさん、及びCさんの見解に従うと、自由とは「思考できること」を意味することになりますよね。
だとすると、身体的拘束(例えば、監禁、緊縛、奴隷労働)は「思考できること」を害しない限りは、自由を制約しないことになります。
手足を縛られていても、「思考」することはできるじゃないですか。
まぁ、「自由」を制約しないことを理由に人に身体的拘束をすることが許されるか? はまた別問題な気がしますが。
確かに拘束等によって、物理的自由は奪われるのかもしれない。
しかし、拘束等によっても思考する事を奪うことはできない。だとすれば、やはり自由の本質は思考にあるのではないか?
本来、自由とは奪うことの出来ないものを指すのではないか。
従って、身体を拘束されたとしても人は本質的な意味の自由は制約されないと考えられる。
まぁなんとなく講釈垂れてるだけの様なきもするけど。
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