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専修大学 社会知性研究会

「社会知性の開発」(専大HP参照)を目標に、週1回、ディベートまたはディスカッションを行うサークルです。

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自由

自由とは義務からの解放ではなく。むしろ、自分に義務を課せる事こそ、自由のなせるわざである思う。

そう考えると、自由と義務とは対極にあるのではなく。自由と対極にあるのは、考える事を辞める事なのかな。
思考する事は思考に縛られる事なのだから、自由ではない。と考える事もできるが、無思考のロボットに自由などあり得ない。自ら考え、自らに義務をかす。これ以上の自由はこの世にないと私は思う。

自由を具体的に述べるとすれば、思考する事ではないか。

Re:自由

なるほど。Cさんが言いたかったのはこういう事だったと思われます。僕が上手くまとめられなかったみたいです。あとで記事を修正しておきます。

ところで、しんぺいさん、及びCさんの見解に従うと、自由とは「思考できること」を意味することになりますよね。
だとすると、身体的拘束(例えば、監禁、緊縛、奴隷労働)は「思考できること」を害しない限りは、自由を制約しないことになります。
手足を縛られていても、「思考」することはできるじゃないですか。

まぁ、「自由」を制約しないことを理由に人に身体的拘束をすることが許されるか? はまた別問題な気がしますが。

  • ALL
  • 2013/04/03(Wed.)

無題

確かに拘束等によって、物理的自由は奪われるのかもしれない。
しかし、拘束等によっても思考する事を奪うことはできない。だとすれば、やはり自由の本質は思考にあるのではないか?

本来、自由とは奪うことの出来ないものを指すのではないか。
従って、身体を拘束されたとしても人は本質的な意味の自由は制約されないと考えられる。

まぁなんとなく講釈垂れてるだけの様なきもするけど。

「自由」とは何か?

先日の卒業生送迎会で少しだけディスカッションっぽいことをやったので、その内容をまとめておこうと思います
( ´∀`)/~~

テーマは「自由」とは何か? です。
最近、「自由を尊重しようぜ!」とか、「俺たちに自由をくれ!」とか言ってる人達がいるけど、そもそも「自由」って何なんでしょうか?

以下、意見をまとめてみたいと思います。動物と人間を対比させる感じで議論が進んでいきます。

☆A さん
「自由」とは、何にも支配されていない状態をいう。
人であろうが、動物であろうが、何かに支配されているから、本来の意味における自由はあり得ない。
例えば、「酒を飲む」という行為は、一見、自らの選択によって、行った行為に見えるけど、実は「酔って良い気分になりたい」という欲求に支配されていることによって選択した行為だから、自由な行為とは呼べない。

☆Bさん
むしろ、支配の中にこそ「自由」があるはず。動物は本能に完成に支配されている存在だけど、人は何かによって完全には支配されず、その限りにおいて「自由」だ。
すなわち、「自由」とは、一定の支配の中で自ら選択できることをいう。

☆Cさん
自由とは「思考できること」をいう。
人は自らに義務を課すことによって、支配に抗うことができる。例えば、お腹が空いても、性欲でムラムラしても自らに義務を課すことで我慢することができる。
では、何故、人は自らに義務を課すことができるか? それは人が「自由」を有しているからだ。すなわち人が「思考できる」存在だからだ。

以上、3つの意見が出ました。何だか読みにくい上に、分かりにくい文章になってしまいましたm(__)m
酔っぱらっていて、深く議論できませんでしたが、まぁ、こんな感じです。
どれが正しいんでしょうね?

追記
しんぺいさんのコメントを基にCさんの意見を修正しました。

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自由

自由とは義務からの解放ではなく。むしろ、自分に義務を課せる事こそ、自由のなせるわざである思う。

そう考えると、自由と義務とは対極にあるのではなく。自由と対極にあるのは、考える事を辞める事なのかな。
思考する事は思考に縛られる事なのだから、自由ではない。と考える事もできるが、無思考のロボットに自由などあり得ない。自ら考え、自らに義務をかす。これ以上の自由はこの世にないと私は思う。

自由を具体的に述べるとすれば、思考する事ではないか。

Re:自由

なるほど。Cさんが言いたかったのはこういう事だったと思われます。僕が上手くまとめられなかったみたいです。あとで記事を修正しておきます。

ところで、しんぺいさん、及びCさんの見解に従うと、自由とは「思考できること」を意味することになりますよね。
だとすると、身体的拘束(例えば、監禁、緊縛、奴隷労働)は「思考できること」を害しない限りは、自由を制約しないことになります。
手足を縛られていても、「思考」することはできるじゃないですか。

まぁ、「自由」を制約しないことを理由に人に身体的拘束をすることが許されるか? はまた別問題な気がしますが。

  • ALL
  • 2013/04/03(Wed.)

無題

確かに拘束等によって、物理的自由は奪われるのかもしれない。
しかし、拘束等によっても思考する事を奪うことはできない。だとすれば、やはり自由の本質は思考にあるのではないか?

本来、自由とは奪うことの出来ないものを指すのではないか。
従って、身体を拘束されたとしても人は本質的な意味の自由は制約されないと考えられる。

まぁなんとなく講釈垂れてるだけの様なきもするけど。

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こんにちは!ディベート・ディスカッションサークル社会知性研究会です。「社会知性の開発」(専修大学HP参照)を目指して、週に一度、7限終了後、討論を行っています。
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sy8ken@gmail.com

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