今回のテーマに対して、僕個人としてのの立場は「段階を得ての原発廃止」でした。
理由としては、今まで運用してきたものをいきなり終わらせる。ということは非常に難しいのではないか?というシンプルなものです。
加えて、原発についてのニュースを聞いたり考えたりするときは常に、どうして運用したのか?リスクを想定できなかったのか?何故リスクに備えた用意していなかったのか?
といったタラレバ論的なことばかりに、目が向いてしまいます。
それらについて、やってしまった、やってこなかった当事者、やらざるえない組織体系、それに反発できなかった、又は目すらめけることができなかった個人と、その個人に影響する社会、そんなものを漠然と想像はしていたけれど
過去のことばかりに捕らわれても、なんの進展もおそらくないだろう。
そんな考えからか、この分野に対しては少し距離を置いていたため、今回のディベートでの皆の意見を聞くことは僕自身の貴重な体験となりました。ということでディベート内容+主観を絡めながらですが、以下にまとめていきます。
今回のディベートは、両チームが前提として、東日本大震災以降の社会の動きから、原子力発電所のデメリットを捉えたうえで、危険性や人権の侵害に着眼点を置いた「即時廃止する派」と経済的な観点からの「段階を得ての廃止派」との討論となりました。
主な争点としては、電力供給、廃棄物の処理、再生可能エネルギー、風評被害、再発防止、憲法上の権利、政治的な問題
といったように広きに渡り討論がされました。
①日本の電力については、震災後に原発を再稼働させる政治的な動きがある点や、電気料金が値上がりしているという点から、原発即廃止では電力は賄えないというのが段階派の意見がありましたが
原発には輸入や輸出に力を入れているのにかかわらず、火力発電等にコスパの悪い30~40年の設備を未だに使用していることが根本的な問題と考えます。
又、補足として、段階派からドイツ等では原発を停止したがために電力が不足してしまい、海外から割高で買わなければいけなくなり、経済を圧迫したという意見もありました。
電力不足への即時廃止派の反対意見では、揚力発電(水力発電)では供給過多を防ぐために電気が捨てられていた。という指摘がされました。
最終的な意見として、自分たちにできることは何なのかと考えたときに「節電」がキーワードとなりましたが、節電する人が得するような仕組みが必要であるという点から「電力買取制度」が提案されました。
②廃棄物に関しては、処理をするのに10万年以上という非現実的な期間がかかることを前提に意見が二つに分かれました。
即時派としては、これ以上廃棄物を生み出さないためにも原発を廃止しろという意見。
段階派としては、処理技術の進歩を待った方がいいのではないかというものでした。
宇宙に打ち上げるなんて話も出ましたが、今は埋めるのが最善であり現段階では厳しいようです。
③再生可能エネルギーについての現状での発電効率や発電量等から現実的でないという段階派と、新規エネルギー産業として国が力を入れるべきという即時派の意見がありました。
これは、電力買取制度の話から考えたのですが、例えば、全国の建物の屋根が太陽パネルになったりしたら大きく変わるかもしれない、しかし、段階派が指摘するようにそれらのコストを補えるだけの余裕は日本にはない。そういった部分で理想と現実の対立が起こってきます。
又、これからの時代は、中国やインド等の人口大国やアフリカ諸国が経済成長に向かうため、電力に関わらず、限られた資源と向き合っていくということは人類の共通の課題となってきています。
④風評被害については、科学的な根拠があるかどうかという点が争点となり、チェルノブイリでの話等も例に上がりましが、ここででた補足意見としては、政府の補助金で援助されている原発のある市町村(いわゆる原発村)の問題がありました。
地方自治の運営ができなくなるといった段階派に対して、別の観点から国が補助金を出す(経済特区、福祉施設建設など)という即時派の意見がありました。
又、いかに再発を防ぐかというところに話は展開して、即時派からは次の2点の意見がありました。
・過去に東電の安全保障基準を超える地震(1260ガル)の地震が歴史的には何度も起こっている。
・配電盤や貯水タンク等のピンポイントで揺れに弱い部分があり、それ以下の地震でも風評被害が起こりうる可能性は十分に考えられる。
これらに対する段階派の反対意見として、東日本大震災での教訓を生かして耐震のレベルや、情報公開の対応を改善できたのだから、人災による被害は軽減する。すなわち、即時廃止は必要ないというものがありました。
考え方は多様であるべきですが、風評被害のケアや、その後の対策も人の命が関わることへの認識が根底にあるべきだという意見もありました。
又、軽減ではなく、完全に被害をなくすということで、シェルターを各地に量産するという意見や、それはコスト的に現実性がないという反対意見も出ました。
⑤人の命というところから繋げると、最後は人権や権力の話へと討論のテーマは進展しました。
まずは即時廃止派から、日本国憲法において経済的な利益よりも人格的な利益を尊重しなければならないという意見がありました。
憲法に書かれた人格的な利益が政治や権力により、ないがしろにされているということです。
参考資料:大飯原発運転差し止め:「250キロ圏の人格権侵害」指摘:毎日新聞より抜粋「関電側の経済的、商業的利益とは一線を画し、住民の人格権を守る任務が裁判所にあると宣言した格調高い判決だ」参考資料:憲法を守るのは国家 守らせるのが国民(国民が守らせる側にいる立憲主義のはずだ)今度は、立憲主義のあり方から、政治体制の話へと発展します。
これも即時派からの意見ですが、選挙の結果は、政策(原発問題等の)のみの民意が反映されたものではなく、国民の総合的な判断により決定したものである。といったものです。
これを聞いたときに、この前の都知事選挙でひたすら脱原発を掲げていた候補者の人のことをふと思い出しました。
又、その人に対して「本当に脱原発を実現したいならば、都知事選ではなく国政に挑むべき」という批判が当時の僕の周りで散見されました。
確かにそれはもっともな部分もあるけれど、実際に長年政界にいた人が実際にそれをしていない。という意味で、「民主詩主義の政治で民意を反映する」とうのは簡単ではないのだと感じました。
選挙が国民の総合的な判断だとするならば、その判断に、事実的な選択肢がほぼ限られてしまっている今の日本の状態(2大政党、もはや1大政党?)、すなわち「民意が反映できてない」といった意見等を中心に、民主主義への議論が白熱していました。
次に、脱原発等の観点から、どんなに優れた政策を掲げようとも、ある党の候補者が多数派を占めることはありえないだろう。という意見も出ました。
これに対しては、僕個人としてですが、今の比例代表を並立で取り入れた選挙制度や、多党からの連立政権での与野党体制といった点から、選挙区で勝ち、多数派にならなくても議席があれば政治への影響力を示せるのではないかと考えます。
これについては、今年の第一回のシャチケンにて、今後の方針を話し合ったときのことを少し振り返りながらメタファーします。
主な方針討論の内容としては、前日に牛丼屋に詰めて話し合った理想論(ネオしゃちけん)を語る僕らに対して、従来のメンバー(保守?)からは現実的には難しいのではないかという批判があり、議論が白熱したということがありました。
結果としては、多数決をしたわけではなくて、合理性や機動力等の観点から、代表の意思でサークルを運営して、同じ志をもてる人で同行していく方針になったのですが。
ここでひとつの考えるのは、あの場で議論の収穫というのは、最終的な結果よりも、両者ともが新たな視野をもったことが大きいという点です。
そのため、仮にこれが多数決だとしても、実際にサークルを運営したうえで、少数派で敗れてしまった人たちの意見が役に立つ場面も必ずあるのではないでしょうか。
(なお、実際の活動計画には皆の意見が反映されています。)
話を少し戻すと、先ほどのある政党のような少数の政党への政治資金を提供するのは、国税の無駄遣いであるという人もいますが、上の観点から、個人的には様々な党が多様な考えを政治に絡めることにもメリットはあると思います。
同時に、20人ほどの大学のサークルでさえ、一つにまとまるのは一苦労であることから考えれば、国として政治家が、多様な考えをもった人同士の利害を、現実に実現にすることは大変難しいとも言えます。
つまり、誰かの上に立つからには理想として、全ての人々の利害を尊重したい。しかしながら、現実には尊重したくても尊重できない利害が生まれてしまうということです。
その隙間を埋めることができるのは、労い言葉でも、優しい気持ちではなく「お金」ではないでしょうか。そうやって考えていくと、政治=お金=汚いというイメージも変わってくると思います。
もっとも、権利が侵害され精神的、身体的な障害を追ってしまえば、それはお金で解決が図れる範囲を逸脱するのですが。